長野県長野市戸隠(とがくし)の宿坊「極意」に併設されたそば処が徳善院蕎麦極意(とくぜんいんそばごくい)。江戸時代には戸隠山顕光寺の宿坊「徳善院」として、神仏分離、廃仏毀釈の明治維新以降は戸隠神社の聚長家(しゅうちょうけ=宿坊のこと)「極意」として、参拝者に自慢の戸隠そばを出してきた宿です。
宿坊「極意」に併設されたそば処
茅葺きの本館は、江戸時代(徳善院だった時代)の文化12年(1815年)の築で、国の登録有形文化財。
併設のそば処が「徳善院蕎麦極意」です。
手打ち細切の戸隠そばは、戸隠特有の馬蹄形(ばていけい=U字)に盛りつける「ぼっち盛り」。
「ざるもり蕎麦」が定番ですが、少し豪華にという場合には、御神酒(おみき)、お通し、山菜煮物、おぼろ豆腐、ミニ天ぷら、そば団子、ざる・かけそばセットの「渓(たに)の膳」(要予約)などの膳が値段も手頃でおすすめです。
予約すれば本館を使っての昼食も可能。
宿坊極意の部屋数は和室6室(1階3室・2階3室)、洋室2室(1階バス・トイレ付きツイン1室・2階スキーヤーズベット1室)。
ただし、2階はスキーシーズン以外は使われないため、実質は5室という隠れ家的な存在。
食事も戸隠そばほか、自慢の伝統料理が並び、おすすめです。
戸隠の歴史を今に伝える、宿坊「極意」
戸隠山顕光寺(とがくしさんけんこうじ)は延暦寺末寺として「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれるほどに栄えました。
修験道、日本古来の神道、そして天台宗(仏教)習合した山岳宗教の聖地となったのです。
徳善院は、その頃は、能海坊(のうかいぼう)と称して「戸隠十三谷三千坊」のひとつでした。
その後、天合派、真言派の争い、さらに上杉・武田の攻防にも巻き込まれて荒廃、衰退してしまいました。
江戸時代、徳川家康は、守護不入、一千石の朱印状を与えて保護し、天海僧正の東叡山(とうえいざん)寛永寺の末寺となり(修験道との結びつきが弱まりました)、奥社の杉並木が植栽され、中部、北陸、関東に戸隠講が広がり、参詣する道も整備されたのです。
能海坊は、この時に、寺格が与えられて、徳善院となり、戸隠講の人々の指定宿舎となり、繁栄しました。
僧侶は、戸隠御師(とがくしおし)として諸国を行脚して信仰を広め、北は東北、西は近畿に及ぶまで信徒を増やしていったのです。
明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の嵐は、戸隠には強く吹き荒れ、戸隠山顕光寺から戸隠神社に、僧侶が神官にと変わったのです。
徳善院も顕光寺の塔頭(たっちゅう)・宿坊から聚長家(宿坊のこと)の極意に変わり、神殿には天手力雄命(たじからおのみこと)、天思兼命(おもいかねのみこと)、天表晴命(うわはるのみこと)、九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)、天市杵嶋姫命(いちきしまひめ)、釈迦如来(しゃかにょらい)が祀られています。
神仏習合の寺が神社へと変遷しても、戸隠山が持つ霊的な力は、多くの人々の心を引き付け続け、今も多くの人がこの地を訪れています。
徳善院蕎麦極意 | |
名称 | 徳善院蕎麦極意/とくぜんいんそばごくい |
所在地 | 長野県長野市戸隠3354 |
関連HP | 徳善院蕎麦極意公式ホームページ |
電車・バスで | JR長野駅からループ橋経由戸隠高原行きバスで1時間、中社宮前下車、すぐ |
ドライブで | 上信越自動車道信濃町ICから約19km、長野ICから約30km |
駐車場 | 20台/無料 |
問い合わせ | 徳善院蕎麦極意 TEL:026-254-2044/FAX:026-254-3147 |
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