江戸時代に作成された『真田家系図』によれば、NHK大河ドラマ『真田丸』で注目の真田一族(真田氏)のルーツは、信州・真田(さなだ)。信濃小県郡の名族・海野氏(うんのし)の出身の真田幸隆(さなだゆきたか)が小県郡真田郷を拝領し、松尾城を築いて真田姓を名乗ったのが始まり。
真田氏のルーツ、真田本城に登城
天文10年(1541年)5月25日に信濃国小県郡(長野県上田市)で起きた海野平の戦い(うんのたいらのたたかい)で、武田信虎(信玄の父で甲斐国を統一)率いる武田軍に敗北。いったん領地を失いますが、後に信濃に侵攻した武田晴信(信玄)に仕えて旧領を回復します。
江戸時代初期に編纂された『甲陽軍鑑』によれば、天文17年(1548年)の上田原の戦いでは、すでに真田幸隆は、武田方(板垣信方陣営)なので、それ以前に武田晴信に与(くみ)したと考えられます。
真田幸隆は武田軍の信濃攻略の先方として重用され、真田幸隆は息子・真田信綱とともに武田二十四将にも数えられています。
居城とした城が真田一族のルーツの地・真田郷に築城された真田本城(さなだほんじょう)。松尾城とも通称されています。
真田山城、松尾新城、住連寺城、十林寺の城山とも呼ばれる中世の山城で土塁や濠の跡が残されています。
本郭、ニの郭、三の郭が尾根沿いに続いていますが、城跡を見る限りでは、さほど難攻不落とも思われないので、前線基地を戸石城、本拠を山麓の居館、いざというときの籠城先がこの真田本城だったと推測できます。
本郭近くまで車で到達でき、駐車場から本郭まで徒歩5分という便利さで、山城ファンにはちょっと物足りない山登りかもしれません。
本郭から出城である戸石城を眺望
真田の盆地を隔てた要害の地に戸石城(砥石城)がありますが、この戸石城ももともとは真田氏の出城。
海野平の戦いで真田氏が敗れ上野国(群馬県)に逃れた際にライバルである村上義清が大改築。
信玄の信濃攻略ではこの戸石城攻めが最大のネックで、天文20年(1551年)、武田晴信(信玄)の命を受けた真田幸綱はついに戸石城を奪取して小県の本領を回復しています。
以降、真田幸綱・信綱・昌幸の3代にわたって、この真田本城(松尾城)が真田一族の本拠となっています。
そして歴史の皮肉か、戸石城や小県郡から真田幸隆や信玄に追い出された村上義清は本拠である葛尾城(長野県坂城町)も放棄して、越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼って亡命。これが川中島の戦いの大きな要因となるのです。
真田幸隆の長男・真田信綱は、勝頼の2代に仕え、家康と激突した三方ヶ原の戦い(現在の浜松市)では武田軍の先手を務めて奮戦。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで徳川・織田連合軍の鉄砲隊によって討ち死に。
次男・真田昌輝(さなだまさてる)も、武田信玄、勝頼の家臣で駿河国攻めの先鋒を担って活躍するも長篠の戦いで鉄砲隊の銃弾に倒れています。
三男の真田昌幸(さなだまさゆき)もやはり、真田本城を拠点に武田信玄、勝頼に仕えますが、武田氏滅亡後は織田信長の軍門に降り、さらに本能寺の変後に、徳川家康の命で上杉を睨むため松尾城(上田城)を築城しています。
この真田昌幸を『真田丸』で演じたのが草刈正雄。
四男の真田信尹(さなだのぶただ)も、昌幸同様に幼少時代を人質として甲府で過ごしています。駿河深沢城の陥落など武田軍の一員として活躍。武田家滅亡後に真田姓に復姓し、諱を「信尹」と改名、後に徳川家康に仕えています。『真田丸』では栗原英雄が熱演。
真田本城 | |
名称 | 真田本城/さだなほんじょう |
所在地 | 長野県上田市真田町長十林寺地先 |
電車・バスで | JR上田駅からタクシーで25分 |
ドライブで | 上信越自動車道上田菅平ICから約9km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 上田市真田地域自治センター TEL:0268-72-2200 |