長野県長野市小島田町、犀川と千曲川に囲まれた文字通り島のようになった部分が川中島。甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が死闘を繰り広げた川中島合戦の主戦場は川中島古戦場史跡公園(八幡原史跡公園)として保存されています。一騎討ちを模った信玄と謙信の銅像は、撮影スポットとして人気。
永禄4年、4回目の合戦の主戦場となった一帯
甲斐(武田信玄)・相模(北条氏康)・駿河(今川義元)の政略結婚による「三国同盟」の進展で、信濃の平定を目ざす信玄は本格的に信濃への侵攻を開始。
信濃葛尾城の城主・村上義清(むらかみよしきよ)は、越後の長尾景虎(上杉謙信)に助けを求め、天文22年(1553年)に川中島で第1回の衝突が勃発。
以後、永禄7年(1564年)の第5回に至るまで、武田軍と上杉軍の5度に渡る衝突があり、初めの3回は犀川を挟んで対峙していますが、大規模な戦闘には至っていません。
川中島の合戦(川中島の戦い)として有名なのは、永禄4年(1561年)の4回目。
上杉軍(1万3000)は妻女山(さいじょさん、現在は妻女山公園と整備)に、武田軍(2万)は海津城(現在の旧松代駅の北側)に陣取りともに退路を塞いだ決戦に。
『甲陽軍鑑』などのよれば、決戦の火蓋が切られたのは、永禄4年9月10日(1561年10月28日)の朝。
上杉軍は、前夜のうちに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡っていたのです。
これが頼山陽の詩句「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)で有名なシーン。
朝霧が晴れると(新暦の10月なので放射冷却だったのかもしれません)、武田軍の眼前にいたのは上杉軍だったというわけなのです。
川中島古戦場史跡公園内には、武田軍が、この前で討ち取った敵将兵の首実検を行ない、勝鬨(かちどき)を上げたとされる川中島古戦場八幡社(平安時代中頃の創建と伝承)、敵将兵の首を葬ったと伝えられる首塚2基、謙信が3回斬りつけ信玄の軍配に7ヶ所の刀傷をつけたという「三太刀七太刀之跡」(みたち・ななたちのあと)の石碑、長野市立博物館などがあります(武田信玄と上杉謙信一騎討ちの像は八幡社の境内に)。
また、築山状芝生広場、自然石を配した小川のせせらぎ、かやぶき屋根の東屋が整備され、散策することができます。
井上靖『風林火山』では、軍師・山本勘助が戦死
井上靖の長編小説『風林火山』がNHKの大河ドラマや映画化され、武田信玄の軍師・山本勘助(やまもとかんすけ)は一躍有名に(『風林火山』には創作の部分も多く、史実と異なる点もあります)。
ドラマや映画化された『風林火山』でもハイライトは川中島の合戦。
武田軍は軍師・山本勘助の作戦に頼るが、上杉軍に見破られ、勘助自身も戦死するというストーリーです。
『甲陽軍鑑』によれば、武田軍は軍師・山本勘助の「啄木鳥(きつつき)の戦法」を用いましたが、上杉軍に見破られ、武田信繁(信玄の弟)や山本勘助が戦死しています。
長野オリンピックスタジアムのある南長野運動公園の西側は、合戦場という地名が残っていますが、山本勘助が討ち死にしたのは、ちょうどスタジアムのあたり。
「山本勘助の墓」は長野鉄道金井山駅の西300mの場所にありますが、元文4年(1739年)に、松代藩の家老・鎌原重栄が高畑地区から千曲川畔に移したもの。
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(「はやきことかぜのごとく、しずかなることはやしのごとく、しんりゃくすることひのごとく、うごかざることやまのごとく」)で知られる風林火山の旗ですが、雲蜂寺(甲州市)には武田家の遺臣たちが納めたといわれる「孫子の旗」が現存しています。
ただし、孫子の教えは、「人は城、人は石垣、人は堀」に通じる本来戦争回避の教えで(序文は「兵は詭道なり」という言葉で始まる、外交重視、戦争回避の教え)。
この「孫子の旗」を風林火山と称したのは井上靖が最初と考えられています。
川中島古戦場史跡公園 | |
名称 | 川中島古戦場史跡公園/かわなかじまこせんじょうしせきこうえん |
所在地 | 長野県長野市小島田町1384-1 |
関連HP | 長野市公式ホームページ |
電車・バスで | JR長野駅からアルピコ交通バス古戦場経由松代行きで20分、川中島古戦場下車、すぐ |
ドライブで | 上信越自動車道長野ICから約3km |
駐車場 | 156台/無料 |
問い合わせ | 長野市公園緑地課 TEL:026-224-5054/FAX:026-224-5111 |
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