上田市真田町にある「真田氏歴史館」。その西側に広がる御屋敷公園が上田城築城以前の真田氏の居館です。平時にはこの居館を利用し、いざというときには山城の真田本城を使いました。中世(戦国時代)の居館ですから建物などは残されていませんが、土塁などに真田一族のルーツの地を偲ぶことができます。
戦国時代の豪族の居館の特長を色濃く残す!
周辺諸国はもちろん、近隣の豪族との争いも絶えない中世(戦国時代)ですから、平時の館といえども実戦的な構えがしっかりと残されています(中世の豪族の館跡として保存状態もよく、長野県の史跡に指定されています)。
真田に真田本城(山城)と居館を築いたのは、真田氏の祖とされる真田幸隆(さなだゆきたか)。
甲斐国(現・山梨県)の武田氏が信濃侵攻を狙う時、上野国(現・群馬県)の関東管領・上杉憲政を後ろ盾にしたのが海野氏ら小県(ちいさがた)周辺の豪族です。
現在の上田市で起きた海野平の戦いで、海野一族は総崩れとなり、真田幸隆も領地を失い、上野国へ逃げます。
その後、信濃に侵攻した武田晴信(武田信玄)を助けて旧領を回復。
真田家の旗印である「六文銭」は三途の川を渡るための船賃ですが、上杉家を見限り、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す覚悟の現れと伝えられます。
つまり、堅固な居館や山城は、六文銭の旗印誕生と同時期、信玄の家臣となった際に、修築されたと推測できます。
館は四方(周囲520m)を堅固な土塁で囲んでいます。北側は大沢川を天然の濠とし、残る3面には濠が掘られていました。
正門となる大手門は南側に、裏門となる搦手門(からめてもん)は北側に位置していました。
公園一帯には600株ほどのツツジが植栽され、5月中旬〜6月上旬にかけて開花し、見頃の日曜日には『御屋敷つつじ祭り』も開かれています。
曲輪に建つ皇太神社は真田昌幸の創建
東側の曲輪に建つ皇太神社は、真田幸隆の三男で、戦国時代きっての知将と伝えられる真田昌幸が上田城に移る際に一族の繁栄を祈願して勧請したもの。
長兄・真田信綱と次兄・真田昌輝が長篠の戦いで徳川・織田連合軍の鉄砲隊に討たれ、真田の家督を継ぎます。
本能寺の変の翌年、天正11年(1583年)、徳川家康は真田昌幸に、上杉謙信の進入を阻み、千曲川周辺を抑える城として松尾城(上田城)の築城を命じます。家康が命じて築城した城が、徳川軍の関ヶ原進軍を阻むことになるのは歴史の皮肉。