長野県長野市松代町にあるのが、山本勘助の墓。山本勘助は、井上靖の長編小説『風林火山』の主人公。永禄4年(1561年)の第4次川中島の合戦で、自身の策略が上杉軍に見破られて討ち死に、寺尾村高畑に葬られたと伝えられています。現在の墓は、移築後の文化6年(1809年)に改修されたもの。
松代藩士が手厚く保護した勘助の墓
勘助塚と呼ばれる墓は、もともと現在の墓の南、八幡原の胴合橋(山本勘助の首と胴を合わせたところから「胴合」の地名が付いたと伝承)にありましたが、千曲川の川筋が変わり、墳墓は川中となったため、寛永年間(1624年〜1643年)、対岸の寺尾村高畑に移葬。
さらに元文年間(1736年~1741年)に松代藩士・鎌原重孝(かんばらしげたか)が千曲川の氾濫などによる塚の荒廃を憂いて、墓の再建に着手しますが、志半ばで他界。
その子で松代藩家老・鎌原重栄(かんばらしげひで)と原正盛(はらまさもり)らは鎌原重孝の遺志を受け継ぎ、元文4年(1739年)、私財を投じて千曲川の自然堤防に建っていた柴阿弥陀堂(しばあみだどう)の境内に遺骨を移し、墓碑を建立したもの。
文化6年(1809年)、山本勘助の没後250年にあわせて、鎌原重孝の孫で、松代藩家老、漢学者の鎌原重賢(かんばらしげたか)が末長く墓が守られるようにと、中台を設け土台を高く石積みにしています(これが現存する墓です)。
碑面には「山本道鬼居士墓」と刻まれています。
勘助は出家後、道鬼と称したため、墓碑銘は山本道鬼に。
山本勘助は、上杉謙信の攻撃に備えて、海津城(松代城)の構築も手がけているとされることから、墓には多くの松代藩士が参詣していたのです。
柴阿弥陀堂は昭和の初め、千曲川河川改修の際に堤外地となったため移築されています。
ちなみに、山本勘助の墓と伝えられるものは、故郷の愛知県豊川市牛久保町の長谷寺(ちょうこくじ)にも遺髪を埋めて建立したとされる墓があるほか、北杜市高根町の伝・山本勘助屋敷跡にも墓があります。
山本勘助の名は、軍学書『甲陽軍鑑』に記載されるだけのため、多くの武勇伝などは、江戸時代以降の創作と推測され、井上靖の長編小説『風林火山』がそれを確固たるものにしています。
山本勘助が講談などで喧伝されるようになってから、深い井戸は勘助井戸となったりした可能性が大なのです。
武田二十四将になったのも近世のことなので、実際の功績にかんしてはまったくわかっていません。
山本勘助の墓 | |
名称 | 山本勘助の墓/やまもとかんすけのはか |
所在地 | 長野県長野市松代町156 |
関連HP | 信州松代観光協会公式ホームページ |
ドライブで | 上信越自動車道長野ICから約2km |
問い合わせ | 信州柴阿弥陀堂 TEL:026-278-3824 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |