小諸城の城跡公園が有料施設の懐古園。「日本100名城」に選定の小諸城ですが、残念ながら懐古園内には天守を含め往時の遺構は残されていません。懐古園入口の三の門、そして小諸駅近くの市街地に大手門が現存しています。北国街道沿いに位置する光岳寺には足柄門が移築されているので、ぜひ見学していきましょう。
小諸藩初代藩主・仙石秀久が築いた門を移築
明治維新を迎えて、日本中の城は天下の名城といわれる城を含めて、「前時代の遺物」、「無用の長物」となりました。とくに幕末に至るまで徳川の重鎮が治めた藩、官軍に抵抗した藩では、建物を徹底的に破却されるような事態にも。関ヶ原合戦時に徳川秀忠が上田攻めの本陣を構えた小諸城も明治維新で建物は破却されてしまいました。
明治13年、小諸城の城郭は小諸藩旧士族へ払い下げられ、旧士族により本丸跡に懐古神社が祀られ、「懐古園」と名付けられました。
光岳寺に移築された足柄門は、慶長元年(1596年)、二の丸と三の丸の間に土手を崩して道を通した際に築かれた門です。
時の城主は、初代藩主となる仙石秀久。
現在の位置としては小諸キャッスルホテルの前を通る道あたりで、小諸藩の役人の通用門として機能していました。
高麗門形式の足柄門は明治5年に光岳寺に移築されています。
光岳寺は家康の母・於大の方(伝通院)の菩提寺
なぜ、光岳寺に足柄門が移築されたのでしょう?
実は、この光岳寺、徳川家康を生んだ於大の方(おだいのかた=伝通院)の菩提寺。
緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で水野忠政の娘として生まれた於大は、松平広忠に嫁ぎ、家康を生んでいます。
於大は水野家が松平家の主君・今川家と対立する織田家についたため(幼き家康は今川家の人質)、夫の松平広忠(家康の父)に離縁されて三河国刈谷城(刈谷市)に帰ります。
その後、於大は、兄で水野家当主の水野信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に久松俊勝に嫁ぎ、三男三女をもうけます。俊勝との間の子供たちは、伝通院との間の子として松平姓を名乗り、徳川家を支えて活躍します。
そのうちのひとり、松平康元(徳川家康の異父弟)は、下総国関宿藩(千葉県野田市関宿)の藩主を務め、秀忠が小諸城に寄り道した関ヶ原合戦の際には家康の代理として江戸城の留守居役を務めています。また、康元の娘の多くは、異父兄の徳川家康の養女となり、政略結婚の道具として使われています。
慶長7年(1602年)、於大の方(伝通院)は、伏見城で没。
松平康元は、関宿に光岳寺を建立。
松平康元の子・松平忠良は、慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で戦功を挙げたことから、その翌年、美濃大垣5万石へ加増移封。それに伴って光岳寺も大垣へ。
寛永元年(1624年)、松平忠良の死去により家督を相続した松平憲良(まつだいらのりなが)は、幼少のため、9月に信濃小諸に移封。
この時、松平憲良に随行した真譽上人が、松翁山芳泉寺を改め、天機山傳通院光岳寺としたのが小諸の光岳寺の始まりです。
明治3年、小諸城主・牧野氏の菩提寺だった泰安寺を合わせているので、小諸城主・牧野氏の菩提寺にもなっています。
(関宿にも、小諸と同じ山号、寺号の天機山傳通院光岳寺がありますので機会があればそちらもぜひ参詣を)
解説が長くなりましたが、光岳寺は於大の方、松平憲良の位牌などを安置し、徳川、松平、牧野各家と深い関わりを持った小諸を代表する名刹といえるのです。
ちなみに本堂の屋根には徳川家の葵紋、松平星梅鉢紋、牧野家の三つ柏紋が描かれています。
光岳寺 | |
名称 | 光岳寺/こうがくじ |
所在地 | 長野県小諸市荒町1-3-4 |
電車・バスで | JR・しなの鉄道小諸駅から徒歩5分 |
ドライブで | 上信越自動車道小諸ICから約3km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 光岳寺 TEL:0267-22-0981 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |