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【信州の城】日本唯一の「穴城」 小諸城

小諸城は、日本唯一といえる「穴城」。どうして穴城かといえば、城の玄関口である大手門がもっとも標高の高い場所にあり、本丸がもっとも低地にあるため。本丸を城郭の片隅に配置する梯郭式(ていかくしき)という縄張りですが、このスタイルは本丸の守りが弱いという欠点があります。小諸城の場合は、本丸の先は千曲川の断崖。

大手門からゆるやかに下ると三の門、そこが二の丸の入口!

慶長17年(1612年)仙石秀久が築いた小諸城・大手門。上田攻めの際にはまだ築かれていません
 
小諸城の正門にあたる大手門は、しなの鉄道・小海線小諸駅から北国街道の通る本町方向に数分歩いた場所にあります。大手門は慶長17年(1612年)、初代小諸藩主・仙石秀久が築いた門が現存しており、国の重要文化財に指定されています。

この門から小諸城に入るわけですが、現在はしなの鉄道が城郭を分断するかたちに。

大手門をくぐったところが三の丸です。しなの鉄道を地下道でくぐると三の門。
三の門は元和1年(1615年)創建ですが、現存する門は明和2年(1765年)の再建。有料ゾーンでもある「懐古園」の入口にもなっています。

この先、ニの門を経て二の丸ですが枡形と呼ばれる屈曲部を設けて大軍の侵入を阻む構造になっています(小諸城内には6ヶ所の枡形を配置)。二の丸は小諸城が築かれる以前に乙女城が建っていた場所です。
浅間山方面の眺望がいいため、賓客を接待する場所として使われ、上田攻めの陣を張った徳川秀忠は、この二の丸に居住しました。

二の丸から黒門橋を渡ると黒門があり、そこを通ってようやく本丸に到達する仕組みです。
本丸の先には馬場があり、その先は今も落差70mほどの断崖で、千曲川へと続いています。

鍵の手となった小諸城内。右側が二の丸

浅間山の爆発で誕生した天然の要害を巧みに活用

大手門より本丸が低い位置にある「穴城」という珍しい構造の城を考案したのは誰でしょう?
一説には、武田信玄が東信の拠点として軍師・山本勘助あるいは山本勘助から城取(築城術)を教授されたという(『甲陽軍鑑』)馬場信房に命じて築かせたと伝わっています。

現在の近世的な城郭に改修したのは小諸藩初代藩主の仙石秀久です。

この小諸城、「穴城」とはいうものの、本丸、ニの丸の南北には深い谷が走っています。
実はこれがこの城の特異性を発揮させる火山性の台地の証。

1万5800年前に起こった浅間山の噴火は、浅間山の形成史上最大規模の噴火。
まず、板鼻黄色軽石が東南東に落下。その後、火砕流が北麓と南麓へ下り、広い火砕流台地を形成したのです。
その堆積物が、小諸城の横を流れる千曲川右岸に連続した高い断崖を形成しました。

こうした火砕流の台地が侵食で削られ谷を形成。西に千曲川の断崖、南北に深い谷という天然の要害を選んだところ、必然的に大手門側(東側)が高台になったというのが真相のようです。

火砕流台地が削られた谷が城を囲んでいます
馬場側から見上げた天守台

 
小諸城
名称 小諸城/こもろじょう
所在地 長野県小諸市丁311
関連HP 懐古園公式ホームページ
電車・バスで JR・しなの鉄道小諸駅から徒歩5分で三の門
ドライブで 上信越自動車道小諸ICから約3km
駐車場 小諸市営駐車場(213台/有料)
問い合わせ 小諸市観光協会 TEL:0267-22-1234/FAX:0267-25-3380
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

懐古園(小諸城址)

2017年4月12日
 
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