飯盛女と別れた橋!? 軽井沢の歴史を二手橋に知る!

旧軽井沢のメインストリート(中山道軽井沢宿)の最奥に位置する二手橋(にてばし)。矢ヶ崎川の爽やかな清流に架かる橋ですが、ここが軽井沢宿の飯盛女(めしもりおんな)が客を見送り別れた場所。それで二手に分かれたのでその名があるのだとか。

飯盛女と旅人が別れた!?  二手橋はメインストリートの最奥に

飯盛女と旅人が別れた!?  二手橋はメインストリートの最奥に

街道時代、軽井沢宿にはたくさんの飯盛女がいた!

この二手橋、一説には宿場の旅籠(はたご)で出会った旅人が東西に別れ、名残を惜しんだ橋と由来を説明する場合もありますが、それならば、宿の玄関でいいはず。江戸側の宿場出入口なので、飯盛女など宿で働く人が、江戸方面に向かう旅人を見送ったという説に信憑性があります。

軽井沢は江戸時代、中山道(木曽街道)で江戸から数えて18番目の宿場。
中山道最大の難所といわれた碓氷峠(うすいとうげ)を東に控え、街道屈指の繁栄を誇っていました。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿には大名が泊まる本陣1軒、脇本陣はなんと4軒。旅籠(はたご=旅館)に至っては21軒を数えました。家の数は119軒で、宿場内の人口は451人でした。
旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたともいわれています。

飯盛女は、正式には「食売女(めしうりおんな)」で、享保3年(1713年)に江戸幕府は触書でそう称するようにと定めています。
ところが、一般には宿場女郎(しゅくばじょろう)とも呼ばれ、食事を給餌する仲居の仕事以外に、夜伽(よとぎ)などに従事するケースも多かったと推測できます。

軽井沢宿でも宿泊客の争奪戦から、食売女(飯盛女)を置かなければ商売が立ちいかない状況だったと推測され、今風にいえばコンパニオン常駐の旅館といった感じです(実際には仲居さんも数多くいて、すべてが女郎的な存在だったわけではありません)。

歌川広重『木曽海道六拾九次之内軽井沢』

歌川広重『木曽海道六拾九次之内軽井沢』

 

二手橋周辺は最初に別荘地となった歴史ある地

そんな軽井沢宿ですが、明治15年の新道開通で新軽井沢といわれる今の軽井沢駅前へと繁華街が移ります。
旅籠の建物は明治20年代には外国人たちが購入し、二手橋周辺に土地を購入し、移築します。
最初の移築は現在ショーハウスとして復元されるもので、二手橋手前のショー記念礼拝堂の裏。
ショーは、自らの別荘をcottage(コテージ)と呼んでいますから、庶民が泊まる軽井沢宿の旅籠も木賃宿(きちんやど)といわれるような粗末な建物だったことがわかります。

そんな二手橋周辺には、今も苔むした庭を有するステキな別荘地が並んでいます。
軽井沢では苔むす庭があることが別荘地のステータス。販売価格も苔ありとなしでは、当然苔ありが上。

大正時代に三越会長の朝吹常吉(あさぶきつねきち)氏は二手橋近くに別荘を買いテニスに興じたのだという。庭では英国式のティーパーティー(ガーデンパーティー)が開かれ、明治時代に力をつけた上流階級(財閥系のブルジョア)。
大正11年設立の日本庭球協会(現・日本テニス協会)の初代会長も慶応ボーイの朝吹常吉氏。

明治期に軽井沢を避暑地として見出した外国人たちは、ちょうど大正時代に軽井沢を去る傾向にあり、その外国人たちから貴族や上流階級の資本家たちが二手橋周辺の別荘を買い取ったのです。

現在、売りだされている二手橋周辺の別荘は、2億円くらい。
さすがは、軽井沢の一等地です。

避暑地・軽井沢を見出し、最初の別荘となったショーハウス

避暑地・軽井沢を見出したショー氏が最初の別荘として移築したコテージ(ショーハウス)

 

二手橋 DATA

名称 二手橋/にてばし
所在地 長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢
電車・バスで JR北陸新幹線・しなの鉄道軽井沢駅北口から草軽交通バス草津行、または、旧軽井沢銀座シャトルバスで7分、旧軽井沢下車、徒歩10分
ドライブで 上信越自動車道碓氷軽井沢ICから30分
駐車場 なし
問い合わせ 軽井沢町観光経済課TEL:0267-45-8579/FAX:0267-45-8579

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